NHK「歴史探偵」MC・アナウンサー&放送内容一覧【ヒストリア後継番組】

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歴史・探求・研究のイメージ テレビ番組情報

「歴史探偵」はNHKの歴史バラエティ番組。

誰もが知る歴史的な事件・出来事に観察や統計、科学など多角的なアプローチで迫る新感覚の歴史番組として放送がスタート。

出演者が歴史的な出来事を調べる「歴史探偵社」という架空の組織に所属。
キャストは、探偵社所長(MC)として俳優・佐藤二朗、秘書(アシスタント)として「歴史秘話ヒストリア」の渡邊佐和子アナ、歴史探偵(リポーター)には近田雄一アナと「歴史探偵社」、特別顧問に歴史研究家・河合敦となっている。

2019年12月18日に第1弾を放送して以降、計3度の特番が制作された。
そして2021年3月31日より「歴史秘話ヒストリア」の後番組としてレギュラー化に至った。

基本的な出演者に変更はないが、歴史探偵として近田雄一のほかに、青井実・森田洋平・石橋亜紗といったアナウンサーが新規加入している。

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主な出演者

探偵社所長(MC)

佐藤二朗(さとうじろう)

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佐藤二朗なう (AMGブックス)

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フロム・ファーストプロダクション所属の俳優

1969年5月7日、愛知県春日井市生まれ、愛知郡東郷町育ちの[birth day=”19690507″]歳
身長181cm、血液型はA型
信州大学経済学部 卒

大学卒業後はリクルートに入社するも雰囲気に合わず1日で退社して帰郷
元々は俳優志望のため、その後もサラリーマンとして働きながら俳優活動を行い、後に芸能事務所に所属するに至った

代表作は「ケータイ刑事 銭形シリーズ」「”幼獣マメシバ”シリーズ」「”勇者ヨシヒコ”シリーズ」などが挙げられ、様々なドラマや映画に出演する個性派俳優として広く認知されている

また、近年はクイズ番組は「99人の壁」のMCとしてレギュラー出演しており、同番組は高い人気を誇っている

「歴史探偵」不定期特番時代から探偵所長として番組に出演している

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[su_service title=”公式サイト” icon=”icon: share” icon_color=”#f26939″ size=”20″]
佐藤二朗 オフィシャルサイト
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副所長(アシスタント)

渡邊佐和子(わたなべさわこ)

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NHKアナウンサー・渡邊佐和子

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NHKの女子アナ
2006年入局

1984年1月2日生まれ、東京都出身の[birth day=”19840102″]歳
日本女子大学 卒

初任地は熊本放送局
その後、福岡・東京アナウンス室を経て大阪放送局に勤務

「土曜スタジオパーク」「英雄たちの選択」「クラシック音楽館」など情報番組や音楽番組、ドキュメンタリーなどを担当することが多い

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大阪放送局異動後も「歴史秘話ヒストリア」「新・ルソンの壺」「すてきにハンドメイド」などに出演している

「歴史探偵」不定期特番時代から番組に出演
「歴史秘話ヒストリア」の終了を受け「歴史探偵」がレギュラー化したため、同時間枠で引き続き歴史番組に出演している

不定期特番時代の肩書は「秘書」、レギュラー化後は「副所長」となっている

https://announcer-news.com/watanabesawako

特別顧問(解説)

河合敦(かわいあつし)

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逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~ (扶桑社新書)

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歴史作家・研究者
多摩大学客員教授

1965年生まれ、東京都町田市出身
青山学院大学文学部史学科 卒 ⇒ 早稲田大学大学院修士課程

元高校教師で文教大学付属高等学校にて日本史の教員を務めていた

「世界一受けたい授業」を始め、テレビやラジオなどに歴史の専門家・評論家として登場
分かりやすい解説が人気となっている

[su_service title=”公式サイト” icon=”icon: share” icon_color=”#f26939″ size=”20″]
河合敦公式サイトTOP
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歴史探偵(リポーター)

近田雄一(ちかだゆういち)

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NHKアナウンサー・近田雄一

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NHKの男性アナウンサー
1999年入局

1976年9月28日生まれ、神奈川県秦野市出身の[birth day=”19760928″]歳
早稲田大学政治経済学部 卒

初任地は静岡放送局
その後、青森、東京アナウンス室を経て大阪放送局に勤務

これまでに「おはよう日本」「スタジオパークからこんにちは」「ニュースほっと関西」などのキャスターを務めてきた

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鉄道ファンとして知られて関連番組にもナレーション、または顔出し出演することも多い

https://announcer-news.com/chikadayuuichi

青井実(あおいみのる)

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NHKアナウンサー・青井実

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NHKの男性アナウンサー
2003年入局

1981年1月2日生まれ、東京都出身の[birth day=”19810102″]歳
身長185cm、血液型はA型
慶應義塾大学経済学部 卒

株式会社丸井の創業者である青井忠治を祖父に持ち、父親や兄も企業経営に携わる裕福な家庭に育つ
さらに元タレントの山岸舞彩は兄の妻で義姉にあたる

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NHK入局後からこれまで、大阪放送局と東京アナウンス室に勤務
主にニュースやバラエティ、音楽番組などを務めてきている

NHKのイケメンアナウンサーとして人気が高く、過去たびたび週刊誌に熱愛をスクープされている人物である

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森田洋平(もりたようへい)

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NHKアナウンサー・森田洋平

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NHKの男性アナウンサー
2003年入局

1979年10月20日生まれ、東京都出身の[birth day=”19791020″]歳
東京大学経済学部 卒
血液型はA型

初任地は長崎放送局
その後は長野や大阪、東京アナウンス室を経て2021年度より2度目の大阪放送局に勤務

入局以来、情報番組やニュース番組などのキャスターを務めることが多い

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大阪時代(1度目)には「ニュースほっと関西」メインキャスター、東京異動後は「ニュースチェック11」「ニュースウオッチ9」などのニュースリーダーを務めた

石橋亜紗(いしばしあさ)

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NHKアナウンサー・石橋亜紗

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NHKの女子アナ
2014年入局

1992年生まれ、東京都出身
女子学院中学校・高校 ⇒ 慶應義塾大学文学部人文社会学科英米文学専攻 卒
夫はNHKアナウンサー・北嶋右京(2019年夏頃に結婚)

初任地は熊本放送局で、2017年春から大阪へ異動
2017年4月3日から「ニュースほっと関西」のサブキャスターを担当

2019年4月からは東京アナウンス室に勤務

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「おはよう日本」の土日祝日キャスター&「ららら♪クラシック」を担当

2021年4月度より2度目の大阪放送局へ異動し、「ニュース きん5時」のメインキャスターに就任した

https://announcer-news.com/ishibashiasa

放送内容

レギュラー時代

2022年

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年8月24日 【 飛鳥の古墳ツアー 】

2022年8月10日 【戦争とアイドル】

■戦争の時代にもアイドルはいた
戦時中のトップアイドルとしてムーラン・ルージュ新宿座のトップスター「明日待子(あしたまつこ)」を紹介。
「ムーラン・ルージュ新宿座」は1931年に出来た劇場。
緑山スタジオでは同劇場を舞台としたNHKドラマ「アイドル」が撮影されており、現場の様子が紹介された。

■ブロマイドで読みとく戦争とアイドルの関係
浅草のプロマイド(ブロマイド)店「マルベル堂」を訪れ、店主から戦争とプロマイドの関わりが語られた。
戦時中、アイドルのプロマイドは兵士に慰問品として送られていたという。

「平和祈念展示資料館」では、実際に海外で日本兵が持っていた「松竹少女歌劇団」のプロマイドが保管されていた。

■兵士の心をつかんだブロマイドの秘密
兵士に送られたブロマイドは撮影方法に特徴があるという。
その方法を再現するため、渡邊佐和子アナがモデルとして参戦し撮影を行った。

 ▽ブロマイド撮影ポイント
 ・ブロマイドはカメラ目線で
 ・画角は全身よりもバストアップで
 ・アイドルの指先まで写す

■アイドル写真にこめた軍部のねらいとは?
専門家が紹介した慰問雑誌には「誌上陣中慰問」という形でアイドル達のブロマイド風写真が多数掲載されていた。
その写真と共に添えられたコメントは彼女たちのメッセージのような体裁で兵士たちを奮い立たせるものだが、編集者やコピーライターによるものだと透けて見えるという。

■宝塚歌劇と戦争 戦時下の公演を徹底調査
「宝塚文化創造館 すみれ♪ミュージアム」にある歴代の宝塚公演ポスターの展示からNHKに残されていた正体不明の「宝塚少女歌劇団」の公演映像について調査。
歴代ポスターを辿るとオシャレな印象だったポスターも日中戦争に入ると戦争色が強まっており、歌劇団も戦争の影響を強く受けていることが伺えた。

また、宝塚が発行していた写真雑誌を見ると、当時の宝塚トップスターが皇軍万歳と日本軍をたたえるグラビアページが確認された。
さらに雑誌を読み進めると、NHKに保存されていた正体不明の映像の公演と同じ場面の写真を発見。
1939年1月の雪組公演「花と兵隊」と判明。
日中全面戦争に国力を集中させるため、演劇や音楽の世界にも戦争協力が求められた末の公演だった。

■戦時下の宝塚歌劇 スターたちを襲った事件
宝塚少女歌劇団がアメリカ公演から帰国した1939年。
帰国途中にカナダのバスケットボールチームと親しくなった宝塚の女優達は、国際親善の一種だったにも関わらず憲兵隊が団員を取り調べ、世間もバッシングする自体となった。
カナダはイギリスの元植民地で、日本は日中戦争を巡ってイギリスと対立していたため非難の対象となった。

■戦時下のアイドルたち その思い
2019年に亡くなった明日待子が戦時中の若者たちが次々と出兵していく様子を語るインタビュー動画を紹介。
彼女たちは出兵前に劇場を訪れたファンたちに「武運長久をお祈りいたします」と伝えていたという。

その後、アイドルたちの活動は劇場を離れて戦地慰問が盛んとなる。
女優・中村メイコもその一人だったとして、実際に当時の思いをインタビューで語った。

【ゲスト】押田信子(メディア史・大衆文化研究家) 【リポーター】山田大樹(NHKアナウンサー)
2022年8月3日 【選「戦国の忍び」】

※2022年4月13日の内容の再放送

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年7月27日 【岡本太郎と太陽の塔】

■徹底調査!太陽の塔 誕生の謎に迫る
万博記念公園にある”太陽の塔”は高さ約70m、幅約60m。

EXPO’70パビリオンでは大阪万博開催当時の様子が模型で展示されている。
当時の太陽の塔は「大屋根」という鉄骨の屋根で覆われた、その真ん中に突き破るように存在していた。

岡本太郎はもともと大阪万博のテーマプロデューサーで、作品を作る立場ではなかった。
元々は「大屋根」の建造計画のみで「太陽の塔」は予定されておらず、後から岡本太郎が勝手に提案して作ったという。

■テレビ初公開の日誌
岡本太郎の秘書・岡本敏子が記した太陽の塔制作前後の業務日誌を紹介。
中身は速記されており解読しにくいものとなっているが、「訪 ~」「来 ~」「tel ~」など一定の法則に従った記載がされていた。

■太郎&丹下 塔誕生の瞬間
業務日誌の中には建築家・丹下健三の名前が頻繁に登場。
当時、万博の建造責任者だった丹下健三とテーマプロデューサーだった岡本太郎は頻繁に打合せを行っていた。

ある日、初めて大屋根の模型を見た岡本太郎は、それを打ち破って巨大な塔を打ち立てる計画を宣言。
設計締め切りの2か月前のタイミングでの太郎の発言に設計担当者は猛反対したが、丹下健三本人は岡本太郎の案を承諾した。

■異質な組み合わせの謎
そもそも岡本太郎を万博のテーマプロデューサーに引き入れたのは丹下健三たっての希望だったという。
丹下は自分と真逆にいる岡本太郎の芸術性を高く評価していた。

整った現代建築デザインの大屋根と有機的な太陽の塔のアンバランスの異質さが見るものに緊張感を与え、何かを考えさせる効果がある。

■なんであの形?
太陽の塔の形が何を表しているかについては様々な説がある。

岡本太郎記念館には太郎直筆のイメージスケッチが保管されている。
スケッチの初期段階では太陽の塔は木をイメージしたものとして描かれていたが、スケッチ開始1か月後くらいから人間の顔を取り込んだイメージに変化していた。
岡本太郎は以前から作品において顔を重視していたという。

大地からエネルギーを吸収する木と人間の顔により、太陽の塔で「命」を表現しようとしてた。

岡本太郎がテーマ展示の基本構想として書き記していたメモには「過去 現在 未来 人類の生命力 その流れ 発展を象る」という趣旨が残されていた。

■岡本太郎と大阪万博
岡本太郎は太陽の塔の提案が受け入れられるか不安を持っていた。
もし塔の建築が不可能なら自分が手を広げて立つという思いを口にしていたという。

そこに普通の男が岡本太郎を歯を食いしばって演じ切っていた一面が垣間見えたと語られた。

■なぜ塔は残ったのか?
万博が終わって会場が解体される際に岡本太郎は心血を注いだ太陽の塔の解体にも反対しなかったという。

1954年に描かれた岡本太郎の油絵「動物」は、いくつか行方不明になった作品のひとつ。
この油絵は別の絵が上書きされる形でX線写真により発見された。

岡本太郎は完成した自分の作品に執着していなかったという。

それでも太陽の塔が大阪万博の閉幕後にも残ったのは、太陽の塔の存続を望む要望が多く、社会に存続の雰囲気作られたため。
特に当時の子どもたちの意見が新聞の投書欄に掲載されるなど要望の声が大きかったという。

これにより、子供たちが生きている100年くらいの間は残してあげたいと岡本太郎の心境にも変化が起きていた

【リポーター】加藤向陽(NHKアナウンサー) 【専門家】平野暁臣(岡本太郎記念館 館長)
2022年7月20日 【大河ドラマコラボSP 鎌倉バトルロイヤル】

■曽我兄弟の仇討ち
1193年5月に富士の裾野で行われた「巻狩」で工藤祐経が殺害された。
本来であれば源頼朝の側近である工藤祐経に対して御家人でない曽我兄弟が近づくことは不可能だが、南北10~20kmに3万人規模の武士が参加していた巻狩は兄弟の侵入を可能にし仇討ちを成功させた。
その成功には叔父であり巻狩の警備責任者だった北条時政が関与していた。
時政は製鉄が行われていた工藤一族の土地の奪取を画策していたことから曽我兄弟の仇討ちを実現させたという。

また、北条時政の最大の目的は源頼朝と嫡男・頼家に暗殺にあったと考えられており、曽我兄弟はそれに利用しようとしていたと考えられている。
頼家は比企能員のもとで養育されており、頼家が次の将軍となれば比企家の権力が強まると北条時政は懸念。
そのため、頼家・頼朝が亡き者になることが理想的だったが曽我兄弟の暗殺は失敗に終わったという。

■比企能員暗殺事件と北条時政
比企一族は鎌倉時代の前期に大量の物資が集まる海上交通の要衝と将軍御所に近い場所館を構えており、政治と経済の両面で強い力を保持していた。
源頼朝から最も目をかけられていた存在だったという。
そんな比企一族が1日で滅亡し、歴史から姿を消すことになった。

鎌倉幕府公式の歴史書である「吾妻鏡」には、病に伏せていた源頼朝を見舞った比企能員が北条家を滅ぼす密談を行っていたが、それを北条政子が偶然聞いて時政に報告。
時政は自宅に比企能員を呼び寄せ殺害したという。
ただ、この説には不可解な点もあり、そもそも小声の密談が北条政子に聞き取れたのかという疑問が残った。
(再現実験では、小声を政子役が聞き取るのは不可能だった)

同時代に僧侶が記したという「愚管抄」では、比企能員暗殺事件に関する記述には北条政子の密談の立ち聞きは見られなかったという。
そもそも「吾妻鏡」は北条家の影響化で書かれたもののため、北条時政の行為を正当化するために密談がでっち上げられた可能性もある。

そもそも比企能員はなぜライバルと言える北条時政の家に鎧も身に着けず不用意に訪れたのか?
「吾妻鏡」によると、源頼家が深く帰依していた名僧・栄西が取り仕切る仏事が催され、頼家の乳母だった比企能員は鎧を付けて馳せ参じるわけにもいかなかったと考えられる。

■北条時政 追放
病床から奇跡的に回復した源頼朝だったが、比企氏滅亡後は幽閉され北条時政に暗殺された。
時政が実権を握るかと思いきや、突如失脚することとなる。

時政のルーツは京都にあり、祖父である時家は北条家に婿入りした。
そのため北条氏は京都の貴族社会にコネを持っており、朝廷の官位を次々と一族にもたらしたため、他の鎌倉貴族とは一線を画す存在となった。

北条時政はある時、孫である3代将軍の実朝から娘婿の平賀朝雅に将軍の首を挿げ替えようとした。
当時の鎌倉幕府は合議制で、実朝をサポートしていた御家人たちは必ずしも北条時政が思い通りに動かせなかった。

実朝を将軍から引きずり降ろそうとする北条時政の思惑に、息子である北条義時が立ち向かうと、実朝側だけでなく時政側の御家人たちも反旗を翻した。
結果として北条時政は失脚することとなった。

【ゲスト】山本耕史 【リポーター】森田洋平(NHKアナウンサー) 【専門家】山本みなみ(鎌倉歴史文化交流館 学芸員)
2022年7月13日 【選「独眼竜政宗 伊達(だて)男の真相を追え!」】

※2021年7月7日の内容の再放送

2022年7月6日 【元寇(げんこう)モンゴル帝国の秘密】

■鎌倉時代の大事件 元寇
鎌倉時代中期にモンゴル帝国が2度(文永の役・弘安の役)にわたって日本に行った侵攻。蒙古襲来などとも呼ばれる。

■モンゴル軍に潜入調査 世界最強のヒミツ
「鷹島モンゴル村」(長崎県松浦市)のロケの模様を紹介。
モンゴル軍の強さの秘密は騎馬隊にあり、13世紀には50年ほどでユーラシア大陸の大半を勢力下に収めた。

1274年に4万の大軍を率いて博多湾に進軍。
しかし、鎌倉武士の反撃によりその日のうちに撤退したという。

■元寇 モンゴル軍に馬トラブル
当時の様子が描かれたという九州大学の絵巻史料によると、モンゴル軍の兵士は歩兵が多く、騎馬隊が描かれた姿は少ない。
別の資料によると少なくとも1500頭の馬はいたはずだが、絵巻史料との整合性がとれていない。

実は、馬は繊細で慣れない環境に行くことに不安や抵抗を覚えるなど輸送が難しく、トラブルがつきものだという。
17日間かけて日本にやってきたモンゴル軍の馬も到着したことには不調を抱え、戦いに駆り出せなかった可能性がある。

■世界最強のモンゴル軍 船に大きな弱点あり
当時の中国式の船がV字型だったのに対し、モンゴル軍の船は船底が平らで量産しやすい作りをしていた。
しかし、その反面「揺れが大きく船酔いしやすい」という大きなデメリットも抱えていた。

シミュレーションでV字底と平底の船の揺れを比較すると、どちらも激しく上下に揺れるが、平底はさらに乗員の態勢が維持できないほどの揺れになっていた。

激しい波の玄界灘を超えてきたモンゴル軍の兵士は船酔いで体力を消耗しきって戦力が大幅に低下していた可能性がある。

■元寇 モンゴル軍を調査 弘安の役の真相に迫る
モンゴル軍が立ち寄ったという長崎の鷹島にある松浦市立埋蔵文化財センターには弘安の役でモンゴル軍が使っていた鋤や鍬が保管されている。
農具を持参していたということは、まず一地域を占領して自給自足を可能にし、その後他の地域へ勢力拡大を図ろうとした可能性がある。

しかし弘安の役では上陸することすらできずに侵攻に失敗。
鎌倉武士たちはモンゴル軍の上陸を防ぐために海岸沿いに石垣を作り、河口に杭を打って小舟の侵入を阻止。
モンゴル軍は1か所から攻め入ろうとしたため鎌倉武士が優勢となり、やがてモンゴル軍の船内衛生が悪化して疫病が広まり、台風の上陸もあって甚大な被害に繋がった。

【リポーター】山田大樹(NHKアナウンサー) 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年6月29日 【VR探検!秀吉の大坂城】

■VRで歴史調査!秀吉の大阪城
秀吉の築いた大阪城は400年前の豊臣家滅亡と共に失われており、現在の大阪城は江戸幕府により再建されたもの。
今回はVR技術を駆使して秀吉の大阪城を再現。

秀吉の大阪城を正確に再現するため当時の痕跡の調査が行われた。

■石垣
秀吉の大阪城は江戸幕府が徹底的に破壊したため地下に埋まっている。
発掘現場では地下に眠った秀吉の大阪城の石垣を確認。現在の大阪城と異なり、野面積みで作られていた。

■建物
滋賀県・竹生島には秀吉ゆかりの寺などが存在。
宝厳寺には、秀吉の大阪城で極楽橋の一部に使われていたというある赤や緑のカラフルな唐門を見ることができる。

■天守
大阪城図屏風には秀吉の大阪城が描かれており、竹生島に移設された極楽橋の姿も確認された。
天守閣は金色に輝いており、黄金天守と呼べるものだった。
また天守の壁には天皇家の紋章である桐と菊が描かれており、朝廷との近さを示していた。

■VRで再現された秀吉 大阪城
豊臣大阪城の屋根瓦など発掘された情報をもとにVRに忠実に反映。

本丸の入り口⇒桜門⇒表御殿の対面所を目指してVRゴーグルで調査。
桜門の前は石垣で三方を囲まれており敵に集中砲火を浴びせることができる。
門をくぐって狭い通路を抜けた先には黄金に輝く天守を目にすることができるよう設計されていた。

表御殿の最初の部屋は64畳の遠侍(とおざむらい)で、大名たちが秀吉と謁見するまでの待合室だった。
ふすまには当時強さの象徴だったトラやヒョウが多数描かれ、床にはトラの毛皮が飾られていたという。

ゴールとなる対面所は秀吉が大名たちと謁見するための部屋。
遠侍よりも豪華絢爛な内装が施されており、襖絵には鳥や木々など自然が描かれていて、来客の緊張をほぐすかのような趣向が凝らされている。

さらに大阪城の庭にはゾウがいたという記録がスペイン人貿易商の手記に残されていた。

スタジオでは佐藤二郎と千田教授がVRゴーグルで秀吉の大阪城の桜門と天守を体験。

■VRで歴史検証 真田丸!強さの秘密
豊臣秀頼の時代に作られた真田丸の強さの秘密をVRで調査。
真田丸には天守などはなく臨時の砦のような外観だったが、敵を打ち破る強力な罠が多数仕掛けられていた。

倍の兵力を持つ徳川軍に包囲されないため、淀川の堤防を決壊させ城の周囲を洪水で満たし、水エリアを抜けた先には”まきびし”が敷き詰められていた。
さらにまきびしエリアに踏み込むと真田丸からの一斉射撃が浴びせられ、そこを突破しても城壁まで高さ10mはある深い堀が行く手を阻んだ。

真田丸内部に視点を移すと、射撃エリアは2階建てに作られており、2倍の火力で敵を迎撃していた。
射撃兵は3人1組となっており、それぞれ「射撃役」「銃口を掃除する役」「弾を詰める役」と役割分担ができていた。

【リポーター】加藤向陽(NHKアナウンサー) 【専門家】千田嘉博(奈良大学教授)
2022年6月15日 【北条政子】

■「鎌倉殿の13人」で注目 北条政子の人物像を調査
北条政子のイメージを街角調査すると「強くて怖い女性」という声が多い。
日本三大悪女として挙げられるのは、豊臣秀吉の側室「淀殿」、足利義政の正室「日野富子」、そして源頼朝の正室「北条政子」。

■政子は悪女!?新たな発掘品で知る本当の姿
鎌倉には、参道や安産を祈願した石、など北条政子に所縁のある名所が存在する。

「鎌倉歴史文化交流館」にある鎌倉時代の「木製のすきぐし」は、頼朝が建てた「永福寺(ようふくじ)」という寺跡の側にある山頂の経塚で発掘された。
頼朝に近い女性によって埋められたと考えられ、その女性は北条政子の可能性があるという。

■鎌倉で貴重な”くし”を発掘 政子が込めた深い思い
「鎌倉殿の13人」で風俗考証を行う立正大学文学部教授・佐多芳彦によると、北条政子は平安時代から存在する「別れのくしの儀」の風習を真似て くしを収めたと考えられるという。
その相手は、戦いでなくなった頼朝の部下の妻などと思われ、世間一般の「怖い女性」のイメージとは違った血の通った人物で”くし”の存在は大きな発見かもしれないと語った。

■「悪女」のイメージがついた夫・頼朝の浮気事件
夫の浮気を知った北条政子は、「後妻(うわなり)打ち」という前妻が後妻の家を破壊して火をつける行動に打って出た。
この出来事が、江戸時代の「武者鑑」に「嫉妬深く根性悪き」書かれてイメージが定着したと考えられる。
ただし、江戸時代はに普及した儒教の持つ女性への価値観が低かったため、政子は「出すぎ・強すぎる女性」という評価が下されたものと思われる。

■戦乱の鎌倉時代 女性が力を持つ社会
北条政子の行った「後妻打ち」は鎌倉時代においては正室に与えられた正当な行為。
また鎌倉時代は男性が合戦などで亡くなることも多く、女性はその跡を継いで家を守る必要があったため、武士の世では女性も力がないと生きていけなかったという。
そういった時代的背景があったうえで、政子は「鎌倉殿の御台所」という存在になった。

■貴重!政子の直筆手紙 母の心情を吐露
40代の政子が神護寺に送ったという手紙には「母が嘆きは浅からぬ」と書かれており、4人の子どもに先立たれた母親の思いが残されていた。

■鎌倉時代 相次ぐ陰謀 情報力で突破
頼朝の死後 幕府を率いた北条政子の情報力を使った政治的手腕を紹介

1203年、政子が47歳の時に父・北条時政と妻・牧の方が自身の子供たちを新たな将軍とするため政子の次男・実朝の暗殺を企てた。
しかし政子は事前にその企てを察知し実朝を逃がしていたことからしっかりとした情報網を持っていたと考えられる。

1224年、政子が68歳の時に幕府の最高権力者だった弟の北条義時が急死。
後継者選びで、義時の妻・伊賀の方と政子は別々の人物を押し、伊賀の方は有力者である三浦義村を味方につける。
危険な交渉ごとには使者を贈るのが常識だったが、政子は非武装の女性をひとり伴って三浦義村の元を訪れ直談判を行い、陰謀を阻止したという。

■非暴力の交渉 平和な世への願い
北条政子は血で血を洗う武力での統治から脱却し法治国家となる平和な世の中を願って非暴力の交渉を行った。
先述の伊賀の方が推した北条正村について、謀反に係ったにも関わらず処刑せず幕府を支える役割を与えることで報復の連鎖を避けたと思われる。

■政子の演説を徹底分析 世界の名演説と似ている!?
明治大学文学部教授・井上優によると、「承久の乱」で御家人の心をひとつにした北条政子の演説は、シェークスピア「ジュリアス・シーザー」の登場人物・アントニーが行う演説によく似ているという。
そこで政子とアントニーの演説の比較検証が行われた。

冒頭は本題から遠回りして同情を誘い、次に故人を想起して聴衆の情を動かす。
さらに故人の恩を噛み締め、仇で返した相手への怒りを誘発する。
最後に、本題としてへりくだって聴衆に決定を委ねている。

≪演説の共通点≫
1. 本題は後回し
2. 情に訴える
3. 具体的で生々しい表現
4. ラストに本題

■新たな史料を発見 政子の最期の言葉
2年前に見つかった新たな史料には、政子が死んだら出家して身を引くという北条泰時を諭す政子の最期の言葉が記されていた。

【リポーター】石橋亜紗 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家) 【VTR】小池栄子
2022年6月8日 【妖怪大国ニッポン!】

■化け物大集合 モノノケ市
京都で開催される「妖怪アートフリマ モノノケ市」を紹介

■百鬼夜行 鬼たちの大行列
飢饉や疫病など人の死が現代よりも身近だった平安時代に人々は災いを闇に潜む鬼のせいと考えた。
京都・一条通りで、鬼の大行列が目撃されたという言い伝えでは様々な種類の鬼がいたことから「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)」と呼ばれた。
一条通りは都の北側に位置し、そこは都心部ではなく死体を遺棄する墓場だった。

昔から日本人は妖怪の姿を描き出そうと試みてきた。
その中でも有名なのは、室町時代に描かれた大徳寺真珠庵所属の「百鬼夜行絵巻」。
日本人は妖怪の姿形を具体的に描いて共有化することで安心感を得るような精神安定剤のような役割を果たしていたと考えられる。

■拝見!謎の百鬼夜行絵巻
国際日本文化研究センターで管理されている2007年に発見された「百鬼ノ図」を紹介。
貝の親子や臼と角だらいなど独特な妖怪が次々と現れるが、この絵巻のもっとも特徴的な点は終盤に起こる黒雲が妖怪たちを飲み込むシーンと2本のツノを持つ異形のシルエット。
絵巻の3分の1を占めるそのシーンは人間の内面にある闇の部分を表現したかったのかもしれないと語られた。

■江戸の妖怪革命!
2019年にオープンした広島県三次市の「湯本豪一記念日本妖怪博物館」を訪問。
博物館の妖怪コレクション5000点から江戸時代以降に生み出されたユニークな3作品を紹介。

 ▽江戸時代「神農鬼が島退治絵巻」
 (おならで妖怪を退治)

 ▽江戸時代後期「人面草紙」
 (登場人物の顔が全員”潰れた餅”のように描かれる)

 ▽江戸時代後期以降「妖怪座像百体」
 (福島県いわき市に伝えられた妖怪をかたどった像136体。製造者や目的が不明)

人口100万を超える大都市となった江戸では妖怪は庶民にとって遠い存在となっていた。
闇を描いたような妖怪を次第に空想上のキャラクターとして楽しむ風潮ができあがり、そのきっかけとなったのが絵師・鳥山石燕による「画図百鬼夜行」。
続編も作られ、計200もの妖怪が描かれたという。

江戸には妖怪ブームが巻きおこり、「百種怪談妖物双六」という”すごろく”なども作られた。

スタジオでは江戸時代の「妖怪手品」の再現が行われた。

■ゲゲゲの創作秘話
水木しげるの生誕100周年で賑わう東京・調布の「鬼太郎茶屋」と、水木しげるの生前の仕事場を訪問。

鳥山石燕の「画図百鬼夜行」や竹原春泉の「絵本百物語」といった江戸の画集や柳田国男の「妖怪談義」を重宝していたという。
特に水木しげるは、姿形の伝わっている妖怪はそのまま生かすという「昔の人が感じたものはそのままにしなくちゃいけない」の考え方を持っていた。

また、妖怪名彙という名前と簡単な解説文しかない妖怪は新たに絵に起こしており、その中には「ヌリカベ」や「イッタンモメン」などがった。
水木しげるの漫画は背景を丁寧に描くことで妖怪の存在感にリアリティを与えており、それを本人は狙って描いていたと語られた。

スタジオには水木しげるの描いたカラー画「妖怪たちの棲む森」が紹介された

【リポーター】山田大樹 【専門家】香川雅信(兵庫県立歴史博物館学芸課長)
2022年6月1日 【幻の東京大改造計画】

■幻の東京大改造計画
明治時代に東京をヨーロッパ風の街並みに作り替えようという実現しなかった改造計画が存在。
スタジオでは明治19年に描かれた東京大改造計画の図面が披露された。

法務省旧本館は東京大空襲で全焼したが保存改修工事を経て創建当時の姿を取り戻し現在に至っている。
その建物には19世紀のヨーロッパで流行ったネオ・バロック様式が取り入れられている。
そして建物に使われている赤レンガこそが東京大改造計画のカギを握ってるという。

■実現のカギはレンガ
明治政府は近代化の象徴としてヨーロッパ風のレンガ造りの建物の街並みを実現することで存在をアピールしよう計画を打ち立てた。
それからわずか5年でレンガ造りの街並みが誕生、それこそが銀座だった。

■日本初!レンガ造りの街
銀座にはロンドンのリージェント・ストリートを参考にしたベランダ付アーケードが作られていた。
また、この時に道幅が大きく広がり、初めて歩道と車道が分離された。

■短期間で大量のレンガ どうやって手に入れた?
当時、大量のレンガは栃木県野木町の巨大なホフマン窯で作られていた。
ホフマン釜は内部がドーナツ状になっており、全部で16の部屋に分かれ、そのうち2部屋でレンガを焼き、一定期間でローテーションさせることで24時間レンガ造りが可能な仕組みとなっている。
このホフマン釜を使って20日間で約22万個のレンガを作っていた。

■当初の銀座は不人気だった
レンガ造りの街となった銀座だったが、当初は雨漏りや湿気で蕎麦屋や茶屋などが営業できないなど不評だった。
茶屋では湿気を払おうと炭火を起こしたら茶葉に匂いが付くなど大きな影響を及ぼしたという。
そのため、明治最初の東京大改造計画が銀座から広がることはなかった。

■ドイツで発見!幻の設計図
ドイツのベルリン工科大学に所蔵されていたのは明治19年に描かれた幻の国会議事堂の設計案だった。
まるで宮殿のようなその設計案は日本政府がドイツの建築家「ベックマン」と「エンデ」に依頼した。

当時、日本は不平等条約を強いられており、交渉も暗礁に乗り上げていた。
そこで外務大臣に就任した井上馨は「海外から未開で野蛮と思われているから交渉がうまくいかない」と考え東京大改造計画を打ち出した。
ヨーロッパ風の街並みにすることで文明国であることをアピールする狙いがあった。

■ベルリンに痕跡が!?
ドイツの国会議事堂など東京大改造計画と同時期に建造されたベルリンの建物には幻の国会議事堂の設計案と類似する点が多く見られた。

■幻に終わった東京大改造計画
ドイツ人建築家と東京大改造計画を進めてきた井上馨だったが、わずか1年後に繰り返し交渉してきたが不平等条約の改善交渉が破談となったため、責任をとって外務大臣を辞職。
東京大改造計画も幻に終わった。

■CGでよみがえる!幻の東京大改造計画
番組ではドイツに残された設計図をもとに幻の東京大改造計画の姿をCGで再現した。

スタジオでは、当時の日本の経済力では東京大改造計画を実現するのはやはり難しかっただろうと推察された。
また、計画自体はとん挫したが、現在の国会議事堂の位置や向きなどは東京大改造計画通りに配置されており、近代化の一翼を担ったことは間違いないという。

【リポーター】山田大樹 【専門家】藤森照信(江戸東京博物館館長)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年5月25日 【鉄道開業150年】

■鉄道開業
1872年(明治5年)、5月に仮開業、9月に全線開業。
新橋~横浜間の29kmを53分で走っていた。

■調査!海の上の鉄道
高輪ゲートウェイ駅近くで線路の撤去を行っていたところ明治5年当時の鉄道遺構を発見。
石垣の上に堤を作って海の上を列車が走行していたという。
また、石垣と共に出土した杭は、石垣の崩落を防いだり海底の地盤を固めるために用いられたと考えられている。
他にも、当時のレールが見つかっており「双頭レール」という上下両側が同じ恰好をしたものが使われていたが、当時の日本では製造ができずイギリスからの輸入に頼っていた。

台場にある幕末に作られた石垣は、横揺れに対応した「布積み」という積み方で作られている。
高輪の鉄道遺構で見つかった石垣も同様の技術が使われていた。
台場の設計図からは石垣を囲むように杭が打たれており、日本独自の技術も鉄道開業に生かされていた。

■海の上を走らせろ!
伊藤博文と大隈重信が日本の近代化のために鉄道の導入を主張。
明治初期は飢饉なども起き物資が不足していたことから主要な港を通す鉄道の必要性は高かった。

しかし、西郷隆盛らは鉄道よりも軍備増強が重要と反対。
また、鉄道計画の資金も不足し、国債発行で確保を試みるも国家予算の半分の金額で難航した。

鉄道予定地には築地など軍の土地や民家、寺などがあり交渉などの手間を考えると、陸地ではなく海上に線路を通して鉄道を走らせた方がコストが節約できると判断された

■開業後 反対派の反応は?
鉄道の開業式の座席表によると西郷隆盛と大隈重信が同じ車両に相席していた。
また、反対派だった大久保利通は鉄道に乗車して意見が一変し「百聞は一見に如かず」という言葉を残していた

■CG再現 鉄道の旅
鉄道博物館で開業当初の蒸気機関車の展示を見学。
しかしその機関車は性能的な乏しさから改良が加えられたものだった。

その後、京都の鉄道専門家のもとで仮開業当初の写真と思われるものから開業当初の列車の姿を確認。
機関車含めて10両と長く、客車にはランクがあって車輪の上の揺れを吸収する板バネの長さが長いほど高ランクの車両だったという。

それらの情報をもとに新橋-横浜間を走る鉄道旅がCGで再現された

■料金は?どんな座席?
一等車両の料金は現在の価格で1万5000円。
明治後期になると一等車両には皮張りの椅子が用いられ、乗客は履物を脱いで座っていた。

■暮らしを変えた鉄道
鉄道の開通で元旦~三が日に川崎大師へお参りに行くという風習が定着。
贅沢気分も味わえてご利益も得られるということで人気を博したという

【リポーター】近田雄一 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年5月18日 【選「南極タロジロ物語」】

※2022年3月16日の内容の再放送

2022年5月11日 【比叡山延暦寺】

■潜入!比叡山延暦寺
比叡山延暦寺とは1つの寺院を指すのではなく、山の麓から山頂までに点在する100以上のお堂すべてを含めた山全体を指す。
日蓮や親鸞、栄西、道元、法然といった名僧たちが学んでいた。

■最澄が最も重視した”法華経”とは?
一仏乗というすべての人間が成仏できるという教えを最澄は重んじ、また多くの僧侶を引き付けた。
奈良時代までは仏教は国家のためのものですべての人を救うという教えではなかったため、一仏乗の考えは当時画期的だったという。

■全ての人が成仏できる!若き最澄の挑戦
疫病で苦しみ救いを求める国民のため、20歳の最澄は山に籠り修行を重ね、12年間一度も山を下りなかった。

■集まる弟子たち 最澄が抱えた苦労とは
僧侶として認められるためには「戒」を与えられる必要があるが、それが可能なのは「下野薬師寺」「奈良東大寺」「筑前観世音寺」だけだった。
比叡山から正式な僧侶を輩出できず、最澄の元を集まったものの山に定住せず離れていった僧侶も多くいたという。

■比叡山から正式な僧侶を 最澄 人生をかけた挑戦
最澄は「戒」を比叡山からでも与えることや、出家しなくても「戒」が得られるよう国や有力な僧侶たちに訴えていった。
結果、4年後に最澄の訴えは受け入れられ、比叡山でも「戒」を与えることが可能となり、比叡山には「戒壇院」が建造された。
しかし、比叡山から正式な僧侶が輩出されたのは最澄が亡くなった後となった

■最澄の教えは後世でどうなった?
平安後期になると、法然や日蓮らによって仏教の教えは一般の人々にも広められていった。
仏教が普及していった背景には、争いなどで世の中が乱れ救いを求める人が増えたためと考えられる。

■受け継がれる最澄の祈り
「根本中堂」には1200年に渡って消えていない「不滅の法灯」という形で最澄の祈りが目に見える形で受け継がれている。
この不滅の法灯からできた四字熟語が「油断大敵」である。

■延暦寺で発見!奇妙な絵
延暦寺のお堂には目と足が1つの妖怪のような姿の僧侶が描かれた絵があり、悪僧を戒めるためのものだという。

■妖怪が戒める”悪僧”の正体とは?
延暦寺の規模が拡大し、僧侶や従者含め数千人規模が山に暮らすよになり、派閥争いなどが起こって次第に武力を用いる僧侶が現れだした。
さらに延暦寺が莫大な財力を手にするようになると、それを悪用する僧侶も出現。
本来貧しい人を救済するために作られた出挙(金貸し)を悪用して、農民や武士に法外な金利で貸付、取り立てには武力も用いたという。

■信長の焼き打ち
延暦寺に転機が訪れたのは1571年。
浅井長政や朝倉義景といった織田信長に敵対する勢力を支援したことから信長が延暦寺の焼き打ちを行った。
その際、不滅の法灯も火が消えたという。

■消えた法灯はどうなった?
延暦寺の焼き討ち後、頑なに寺の復興を認めなかった信長だが、彼の死後に豊臣秀吉が自身の政治的立ち位置を有利にするため復興を認めた。
そこで問題になったのは「消えた法灯をどうするか」だったが、最澄の弟子だった円仁が山形県に建立した「立石寺」に分灯された火が存在していたため復活することができた。

そもそも、戦国時代に戦に巻き込まれ立石寺の法灯が消えてしまった際に延暦寺から分灯してもらっていたことから、円海は72歳にしてその恩を返すことができたという

【リポーター】森田洋平 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年5月4日 【源平合戦 壇の浦の戦い】

■義経のライバル 平知盛
平清盛の息子で平家武士団を率いた実質的な平家の総大将。
山口県下関市のみもすそ川公園には源義経と共に平知盛の像も飾られている

■平家は強かった
平家は都の治安維持や天皇の身辺警護を担っていた最強の先頭集団で、平知盛は知略と武芸を兼ね備えた人物。

■平家が着た大鎧
平家の武士たちが身に着けていたのは華やかで防御力に優れた大鎧。その重量は30kg。
天皇のいる京都には一流の職人が集まったので優れた鎧を平家は調達することができた。

■平家最強の”騎射”
横に矢を射る流鏑馬(やぶさめ)ではなく前に放つ追物射(おものい)は高い威力を誇り人体も貫通することもあったという。
番組ないので実験では流鏑馬が板4枚を射抜いたのに対し、追物射は板6枚を貫通した。

■知将 平知盛
「水島の戦い」で高波で船が揺れ弓の命中率が下がる懸念を解消するため、平知盛は二艘の船に板をかけてその上から弓を射ることで安定性を確保した。
番組内の実験で、船1隻と2隻での命中率を比較したところ、前者21%に対し後者42%と2倍ほどの違いが表れた。

■天文現象を利用せよ
平家には暦に精通した陰陽師がおり、1183年11月17日に起きた金環日食を予測、これを利用し戦いを有利に進めたという。

■何度も勝利!平家軍
官軍(天皇の軍)だった平家は兵力や物資の調達のしやすさもあり連戦連勝を重ねた。しかし次第に敗色濃厚となり都落ちしていった。
「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」と連敗を重ねたのは源義経の活躍があったためとされる

■知盛 水軍力アップ
壇ノ浦の戦い直前に山鹿水軍などを味方につけて平家の水軍力を高めていた

■最終決戦 壇ノ浦の戦い
源範頼が陸側から平家軍に矢で攻撃したという平家物語の記述をもとに、田野浦付近を調べると時計回りの潮の流れを観測が観測された。
平家軍の船は還流に巻き込まれ範頼軍の陸地の方に引き込まれた可能性がある。
また、義経は舟のこぎ手を攻撃するように命令を下していたともされている。

戦いのポイントとなった「還流」「こぎ手への攻撃」「陸の範頼軍」を考慮してAIによるシミュレーションを行ったところ、序盤こそ平家が圧倒していたが、漕ぎ手を攻撃されてからは船が還流で陸地の方に流され、範頼軍に弓で攻撃され知盛軍は壊滅していった。

■平家の最期
追い詰められた平家軍は安徳天皇が入水、三種の神器の1つである剣も海に沈み、知盛は船のイカリと共に海に飛び込んで平家は滅亡した

【リポーター】近田雄一 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年4月27日 【ヒーロー 源義経】

■義経の印象
佐藤二朗は「戦の天才」、迫田孝也は「美男子」と語った

■義経の顔グラフィック
横浜市にあるコーエーテクモゲームスを訪れ、「信長の野望」など戦国時代をテーマとしたゲームの開発者であるシブサワ・コウと対談。
ゲームに登場する武将をデザインする際にはリアリティを出すため「シチュエーション」を重視し、その場面にふさわしい顔を描き出すという。

番組で3Dグラフィック化する義経は1184年の一ノ谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を実施し戦果を収めたシチュエーション。
文献などから情報を収集した結果、「色白」「前歯が出ている」「鬼神の表情」「髭が濃い」という情報が反映された源義経のビジュアルが完成した。

スタジオでは完成した源義経のほか、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で佐藤二朗が演じる比企能員、迫田孝也演じる「源範頼」の顔グラフィックも披露された

■義経の身長
義経の等身大パネルが登場。源義経の身長は151cmだったと推測される。
これは「国宝 赤糸縅大鎧(あかいとおどしよろい)」のサイズを測定して割り出したものだという。
当時の武将の平均身長が156cm~167cmと考えられるため、その時代でも低めの身長と言える

■一ノ谷の戦い 逆落としの謎
一ノ谷の戦い(兵庫・神戸市)を攻め落とそうとしていた源範頼と義経は平家の「逆茂木」「深い堀」「矢を阻む楯」に苦戦。
そこで義経は精鋭を連れて「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を実行したというのが平家物語に書かれている内容である。

しかし専門家によると「鵯越の逆落とし」はフィクションだという。
実際には義経が一ノ谷から、範頼が生田の森から平家軍を挟み撃ちにして、その隙に多田行綱が鵯越から平家の本拠地である福原に奇襲をかけたと考えられる。

■英雄を襲った悲劇
壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させた源義経は朝廷からの信頼を獲得したが、一方でピラミッド型の幕府を理想とする兄の頼朝は義経の存在を幕府の分断を生む存在として警戒。
所領24カ所を没収され、討伐の兵も差し向けられた義経は平泉にたどり着き、1189年に31歳で自害した。

中尊寺には義経の肖像画がおさめられており、自分たちが愛した義経の姿を永遠に残したいという想いで作られたと考えられる。
また義経の活躍は、のちの世に歌舞伎や浮世絵などの題材として物語が生まれていった

【ゲスト】迫田孝也 【リポーター】近田雄一 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年4月20日 【刀剣】

■古代に作られた謎の刀「蕨手刀(わらびてとう)」
大宮巌鼓神社で代々受け継がれてきた蕨手刀。
片手でつかみやすく、獣の解体や草木をなぎ倒すために作られた蕨手刀は群馬県周辺で数多く見つかっている。
のちに蝦夷に伝わり武器として昇華していった。

■蕨手刀の内部構造を調査
「SPring-8」で蕨手刀を超高精度なレントゲンで科学的に調査。
内部には不純物が少なく高純度の鉄で出来ていた。
また、「折り返し鍛錬」の痕跡も見られず、刃と柄には接合部がないため鉄塊から板状にして作り上げたという可能性がある

■刀剣大好きふなっしー 妖刀村正伝説を調査
村正は徳川家康自身、祖父・清康、父・広忠、息子・信康が落命、または何かしらの被害を受けた”徳川に仇なす刀”とされ、「妖刀村正伝説」として伝わっている。
「落穂集」には、村正による一連の凶事や家康自身が村正の破棄を命じたことが記されている。

■刀匠・水心子正秀
江戸時代には日本刀は美術品の意味合いが強く、水心子正秀は流行りを追及して美麗な刀を作っていた。
鎌倉時代から続く刀鍛冶から技法を学ぼうとするも、古の技は一部が途絶えていたことから、水心子正秀は流行りの美しい刀ではなく強靭な刀を作ることを決意。
古い型を集め、鉄の配合を試行錯誤し、鎌倉時代の古の刀の再現に成功。
後身に技を伝え、知識を書に記した

【リポーター】ふなっしー、森田洋平(NHKアナウンサー)、加藤向陽(NHKアナウンサー) 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年4月13日 【戦国の忍び】

■戦国の忍びが東京・八王子にいた!?
北条氏が拠点とした八王子城跡から忍者の道具「まきびし」が発見された。
鉄製ではなく低温で焼いた素焼きの土製まきびしは0.3mmのステンレスも貫く威力があり、且つ容易に量産が可能なものだという

同じく北条氏の城である埼玉の岩槻城跡からは緑泥石片岩で作られた手裏剣の一種が見つかった。
緑泥石片岩は関東で供養塔や板碑にも使われ、鉄製の道具で打ち割ることができるため石工や大工にとって加工が容易な素材である。

戦国時代は草履などが履物の主流のため、土製のまきびしなどはそれなりに効果があったと考えられる

■どう使われた?戦国の忍びの武器
「まきびしは撒くのではなく置く」「丸い土球は敷石に置いて相手を転倒させる」といった使い方がされていた

■戦国の忍び
忍者は地域と密着して隠密行動や諜報活動などを行っていたと考えられているが、戦国時代は戦いに関する役目が多かったという。

北条氏康が出した公文書では忍びによる葛西城の乗っ取りの依頼が記されていた。
実際には北条軍との連携で、忍びが陽動作戦を担い、その隙に本軍が城を制圧した葛西城乗っ取り作戦が1562年4月24日に行われた。

北条軍だけでなく、武田軍、毛利軍、島津軍など戦に忍びを活動していたケースは多数記録に残っている。
また、戦乱の世が終わると忍びたちは農家に転職したり、大名のもとで諜報などに専念するなど様々な道を辿っているという

【アナウンサー】近田雄一 【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年4月6日 【縄文レボリューション】

種子島では1万年以上前から縄文人が生活していたとされ、7800~7400年前の生活痕跡が発見されている。
別の遺跡で発見された1万年前の土器からはコクゾウムシという米の害虫が確認されたが、米は弥生時代に伝わったと考えられていたためコクゾウムは縄文時代にはいないと考えられていた。

世界的には農耕が始まった時から定住生活はスタートしたと考えられているが、縄文人は調達した食料の保存で定住を実現していたという。
全国の遺跡の圧痕を調べると、定住は九州から全国に広がりを見せていたと考えられる。
三角山遺跡では1万3000年前の竪穴住居が発見された。

1万3000年前の大豆の原種と年代別の圧痕から、縄文人は木の実を採取して大きな豆を選別して育てていた可能性がある。

下宅部遺跡で発見されたアズマネザサを使った手編みカゴからは縄文人の観察眼の高さが示唆された。
アズマネザサは2年目以降のものでは硬くてカゴの材料には向かないという。

木からは漆を採取して土器に用いていたほか、木を間引きして杭として活用するなど再利用と森林管理の概念を持ち合わせていた。

人類学者・竹倉史人の説「土偶は植物をかたどった精霊像」を紹介。
縄文人は植物の成長を呪術的に祈願し、それに土偶を利用していた。弥生時代になると稲作で食料が安定し祈る必要がなくなり土偶も姿を消したというものである

【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年3月16日 【南極タロジロ物語】

※本放送は東北地方の震度6強地震により中断され、3月18日の再放送で完全版が放送された

「南極タロジロ物語」で描かれたの南極観測隊によって現地に置き去りにされたカラフト犬のタロ&ジロがテーマ。
犬ぞりで知られたカラフト犬は寒さの強い場所でも音を聞き分け危険な地形の判断が可能。寒さにも強く、南極観測隊のソリ引きとして連れられていた。

「第一次南極観測隊」は1951年1月24日から約1年に渡り観測活動を行い第二次観測隊と交代するはずだった。
しかし第二次隊を乗せた観測船「宗谷」が凍結した海に閉じ込められたことで第二次越冬観測計画は中止となった。

当時の船の馬力では南極の氷を砕いて進む能力が不足したいた。
その後、アメリカの援助でなんとか昭和基地に接近して飛行機で第一次観測隊を回収するも天候が悪化したため、カラフト犬たちは南極に置き去りにされることとなった。

1959年1月に第三次観測隊が「宗谷」からヘリコプターで昭和基地に向かうと、タロとジロの姿を確認。
15頭のうち7頭が鎖につながれたまま息絶えており、6頭は首輪を抜けて姿が見えなかった。

1968年、昭和基地近くでカラフト犬たちのリーダー格だったリキの遺体が発見された。
犬ぞりではリーダーがほかの犬に指示を与えるなど大きな存在となっており、リキのおかけでタロやジロは生存することができたという。
観測隊は遠くに行く際に荷物を軽くするためルートの途中で食料などを放置しており、方向感覚に優れたリキは食料が置かれた場所を認識していたと考えられる

その後、タロとジロは南極でそりを引いていたが、ジロは病死し、タロは帰国。15歳で生涯を閉じた

【アナウンサー】青井実、鈴木遥
2022年3月9日 【選「吉原遊郭」】

※2021年10月6日の内容の再放送

2022年3月2日 【天下統一 秀吉の一夜城】

1590年「小田原征伐」における豊臣秀吉と北条氏の攻防がテーマ。
北条氏は小田原の街を「土塁」という塀で囲んで守りを固めており、番組で土塁の一部を再現。滑りやすい関東ローム層で作られており攻めるのは容易ではなかったという。

豊臣秀吉は小田原城から3km離れた石垣山に一夜城を建築。
専門家によると一夜城には熟練の職人が関わった形跡があり、天守も備わり城の見栄えや壮観さでは北条氏を圧倒。
築城後に周囲の木を切り倒したことで北条軍には一夜で城が築かれたように見え戦慄、戦意を喪失したという。

「小田原征伐」後、「明」に攻め入ることを決意していた豊臣秀吉は出兵への不安を払拭するため肥前名護屋城を建築。
石垣山一夜城の4倍の面積と更なる壮観さで圧倒的な存在感を示した。
石垣山の一夜城は肥前名護屋城の予行練習、または原型になったという。

一夜城~肥前名護屋城の流れは、城の役割が「戦う」から「見せる」にシフトしていた可能性がある

【アナウンサー】渡邊佐和子
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年2月2日 【缶詰は見た 日本近現代史】

■赤飯缶詰
太平洋戦争末期に製造されていたという赤飯缶詰は手柄を立てたお祝いとして使われた可能性がある

■アメリカ軍
カロリーや栄養バランスを計算した缶詰を生産し兵士の食糧になっていた

■鉄不足
日本では船や飛行機の製造が優先され、缶詰は生産中止に追い込まれるなど支障をきたした。
日米開戦の1か月前の会議記録からは食糧問題の軽視が見て取れるとのこと。
そもそも日本軍は補給や支援を軽視していた節があり、食料も現地調達を命じられていたという。

■戦後
日本は海外向けに缶詰を生産し輸出。1978年のパリ万国博覧会ではサケの缶詰が好評だった。
静岡では余ったマグロを缶詰にしてアメリカに輸出した結果、全米の3分の1を占め、カリフォルニアの経済を圧迫したという。
日本産のマグロの缶詰はアメリカ産に比べ3割ほど安かったこともアメリカでの売り上げ好調の要因となった

■中国との貿易
戦前から缶詰容器の会社を経営していた高碕達之助は飢餓に苦しむ中国との貿易を望み、その後、周恩来と親交を深め信頼関係を気づいていった。
これがその後、1962年に「日中総合貿易に関する覚書」の締結、1972年の日中国交正常化に繋がり、高碕達之助がその最初のキッカケを作ったと言える

【アナウンサー】石橋亜紗
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2022年1月26日 【戦国レジスタンス 村上海賊&雑賀衆】

■徹底調査!村上海賊
 ▽能島周辺の複雑な海流を把握していた村上海賊は海上に関所を設け通行料をとる一方で、航海の安全を保障
 ▽村上武吉の陣羽織には中南米に生息するコチニールが染料として使用されており、海外との繋がりを示唆
 ▽大友宗麟が瀬戸内海を通行する際は村上海賊に護衛を依頼し、見返りに軍事物質を提供されていた
 ▽村上海軍の強さは全国的に知れ渡り、将軍も認めていた

■徹底調査!雑賀衆
 ▽雑賀は現在の和歌山県和歌山市あたりで、雑賀衆は現代的に言えば和歌山市民
 ▽雑賀衆は自警のために射程距離30mと短い狩猟用の火縄銃を使用。弾込め~発射までの工程を分業化し連射を可能にした
 ▽戦国最強のスナイパー集団として傭兵稼業も行っていた
 ▽雑賀衆と村上海賊には繋がりがあり、村上海賊は相当の敬意を払っていた

■村上海賊と雑賀衆V.S.戦国の覇王 信長
 ▽1576年の「天王寺の戦い」では本願寺側に雑賀衆が参戦。さらに信長が本願寺を包囲して物資供給を絶とうとすると村上海賊が襲来し、織田軍は大敗した
 ▽本能寺の変以降、雑賀衆の一部は豊臣秀吉に召し抱えられ、江戸時代には徳川御三家に仕えた。一方、海賊取り締まりで村上海賊は通行料を徴収できなくなり外交使節団の案内役などを務めるようになった

【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年1月19日 【本当に鎖国だったのか!?】

■鎖国の実態「長崎」
 ▽出島には交易を許可されたオランダ人が暮らし商売をしていた
 ▽引力、遠心力、真空、惑星といった科学の言葉はオランダとの通訳を務めた「阿蘭陀通詞」により編み出された
 ▽蝦夷でロシア軍艦長が捕まった際にも阿蘭陀通詞の馬場佐十郎が派遣されたがロシア語の語学力が不足しており、その後艦長からレクチャーを受けロシア語の文法書をまとめたという
 ▽馬場佐十郎は最終的にオランダ語・ロシア語・英語を習得し、彼の弟子たちは幕末の海外交渉で活躍した

■鎖国の実態「蝦夷」
 ▽絹織物「蝦夷錦」の素材である生糸は当時の北海道では生産できず、使われている糸は1650年頃に清王朝で作られていたものの可能性がある
 ▽探検家の間宮林蔵は樺太を調査し半島ではなく島であることを確認。さらに幻の街”デレン”やアムール川下流を調査、ユーラシア大陸に足を踏み入れ、蝦夷錦の流通ルートを調査した

■鎖国の実態「鹿児島」
 ▽唐から琉球を経て伝わったさつまいもは「からイモ」と呼ばれたが原産地はアメリカだった

■鎖国の実態「対馬」
 ▽韓国は古くから交流があり、米、生糸、朝鮮人参などが輸入されていた
 ▽釜山には倭館という街があり男性のみが滞在を許されたという
 ▽倭館の上級役職に就いた館守たちは幕府からの指示で朝鮮・中国の情報を収集していた
 ▽清が明王朝の首都に攻め込んだ際には日本に救援要請が入ったが、対馬からの情報で明側の劣勢を知った幕府は派兵を見送った

【アナウンサー】石橋亜紗
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年1月12日 【武士の都・鎌倉】

■頼朝の町づくり
 ▽鶴岡八幡宮を移設、八幡神を祀った
 ▽北条義時や梶原景時、比企能員など有力武士の館を建造
 ▽外部との往来を盛んにするために切通を設置、また海路を活発にするため和賀江島を整備

■切通を徹底調査!
 ▽鎌倉七口の1つ「大仏切通」は、クランクや身を隠す木々など守備にも適した場所
 ▽AIシミュレーションによる大仏切通の攻防結果を紹介すると、防御側が圧倒的に有利となった

■観光スポット切通
 ▽朝夷奈切通(あさいなきりどおし)や名越切通(なごえきりどおし)を紹介

■鎌倉に危機が迫る
 ▽足利尊氏や新田義貞が鎌倉に進軍した際の文献の記載と鎌倉の天気を紹介。「北西の風に乗って、火が鎌倉に押し寄せた」という記載と「海に浮かんだ兵船が沖に流された」という記載はつじつまが合っている

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2022年1月5日 【黄金の国ジパングを探せ!】

■東方見聞録はファンタジー!?黄金の国ジパングを探せ
 ▽マルコ・ポーロの「東方見聞録」に出てくる黄金の宮殿は「中尊寺金色堂」がモデルになったとされる
 ▽東北にはかつて無数の金山が存在していた
 ▽明治時代に宮城で発見された重さ2kg以上の金塊はセントルイス万国博覧会に出展されたが、大部分が行方不明になった。金の含有率は約83%だったという

■黄金の国ジパング 解明!巨大な金のヒミツ
 ▽化石同様、巨大な金は地下深くになるほど大きくなりやすい

■黄金の国ジパング 第2の候補地に迫る!
 ▽タイでは黄金の仏像が続々と建立、仏像に金箔を貼ることは善行の1つとされる
 ▽タイは中国から金を輸入しており、中国の歴史書によると金の輸入元は日本だった
 ▽当時の海外との貿易品リストに「倭金」と記されており、日本の金がブランド化されていた可能性がある

■黄金の国ジパング 探偵はスペインへ!?
 ▽志摩スペイン村のハビエル城博物館にはコロンブスの関連展示がある
 ▽コロンブスは東方見聞録を愛読しており、特に”黄金”に着目、ジパングを探索していた節がある
 ▽1492年製の地球儀と現在の世界地図を重ねると、ジパングの位置がコロンブスが到達したアメリカ大陸と一致するという

【アナウンサー】
安部みちこ

【専門家】
四日市康博(立教大学准教授)

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2021年

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放送日 テーマ/放送内容 出演探偵・その他
2021年12月15日 【忠臣蔵 世紀の“劇場型”事件】

■忠臣蔵(赤穂事件)と吉良上野介
▽吉良上野介は徳川将軍家に直接仕えた旗本で、教養を持ち礼儀作法にも精通
▽浅野内匠頭が松之大廊下で切りつけられたとされる刃傷事件の後、吉良上野介は幕府の指示で江戸城の中心部から本所に引っ越した
▽本所は警備が手薄だっため赤穂浪士の討ち入りは成功した。もし引っ越し前だったら失敗していたという

■大石内蔵助 命がけの演出
▽「堀部武庸筆記」によると、事件現場にいなかった大石内蔵助は刀傷事件を冷静に捉えており、浅野内匠頭の仇討ちが御家断絶に繋がると懸念。浪士たちに踏みとどまるよう説得していた
▽他方、世論は「命を捨てでも討ち入りを行うべき」という流れに傾き、浪士たちもフラストレーションを抱いていた
▽最終的に、跡継ぎ候補の浅野大学も罰せられ御家再興が不可能と判断した大石内蔵助は赤穂浪士を率いての討ち入りを選択した

■討ち入り後
▽吉良上野介の屋敷~浅野内匠頭が眠る泉岳寺を、討ち入りを終えた浪士たちが行進すると、役人たちは咎めず茶をふるまっていた
▽赤穂浪士の評判は世間に広まり、子供たちが浪士の格好で喜んでいる絵も残されている
▽朝廷と新たな関係を築きたい幕府は、行事の礼儀作法を指導する「高家」だった吉良家を煙たがっていた節があり、吉良上野介の死後に吉良家は高家を解任された

■事件の真相とは?
▽吉良家を断絶するため、大石内蔵助を唆して吉良上野介が襲撃されるよう仕向け、さらに上野介の実子である上杉綱憲が赤穂浪士と戦えば介入の大義名分を得られるなど、幕府が描いた構図だったのでは?と語られた

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)、大石学(東京学芸大学名誉教授・特任教授)
2021年12月8日 【写真で迫る真珠湾攻撃のリアル 若者たちは何を感じたのか?】

■カラー化写真で迫る真珠湾攻撃のリアル
▽撃沈された戦艦「アリゾナ」、日本軍の攻撃で逃げ惑うハワイの住民、破壊されたドラッグストアなどの写真を紹介
▽真珠湾攻撃で海軍パイロットだった人物宅を訪れ、遺品や当時の写真などを紹介

■真珠湾攻撃直前に撮られた宴会写真をカラー化
▽前述の写真のうち、真珠湾攻撃直前に開かれた宴会写真のカラー化を番組で行い公開した

■真珠湾攻撃直前の宴会写真 若者たちの想いとは?
▽日記や元パイロットへのインタビューなどから当時の若者たちが「戦争が近い」ことを悟っていたことが伺える

■真珠湾攻撃 白く塗りつぶされた謎の集合写真
▽真珠湾攻撃で初めて実戦投入された小型潜水艦の乗組員は10人中9人が死亡しており、生存した1人は集合写真上で白く塗りつぶされた

■真珠湾攻撃 ”捕虜第一号”
▽写真が白く塗りつぶされた生存者は捕虜として終戦を迎えたが、「生きて虜囚の辱めを受けず」という行動規範が前提の当時の日本においては、写真が出回って家族に迷惑がかかると思い、煙草を押し当てて人相を変えようとしていた
▽太平洋戦争で最初の捕虜となった彼は、同じように捕虜となった日本兵を励ましており、彼のおかげで生きていると話す捕虜は多いという

【アナウンサー】青井実
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家)
2021年12月1日 【遣唐使 極秘ミッション】

■遣唐使船
▽中国に向かう船は一番偉い大使の部屋でも四畳半ほど
▽食料は蒸した米を乾燥させお湯で戻す「糒(ほしい)」
▽歴史の教科書などから遭難が多いイメージだが、漁師から風向きの情報を得たり、唐から持ち帰った技術で船の強度を上げるなどを行い、唐への到着の成功率自体は高かったという

■遣唐使極秘ミッション
▽遣唐使の使命は最先端の知識が書かれた書物を持ち帰ること。謝礼を支払い寺院で書き写していたという
▽当時文字が書ける人が少なかったため遣唐使がアルバイトとして墓誌を書いていた。報酬は生活費や書物の入手に使われた
▽遣唐使が持ち帰った書物を参考に、「大宝律令」「墾田永年私財法」など法律が制定されたり、大仏建立や平安京・平城京の参考にされたという。また恋愛小説なども持ち帰り、紫式部など日本文学にも影響を与えたとされる
▽一方、遣唐使によって天然痘がもたらされたとも言われており、日本の人口の3割が死に至る猛威を振るい、その後は料理も大皿から小皿に取り分けるようになったと考えられている

■遣唐使の停止
▽唐の治安が乱れたこと、民間貿易が進んだことなどから894年に遣唐使は停止した

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦
2021年11月24日 【江戸の天才たち】

■東洋のダ・ヴィンチ「国友一貫斎(鉄砲鍛冶職人)」
日本刀の油を使った研磨法を応用して凹凸の無い鏡を作り望遠鏡を手掛ける。
月のクレーターを観察できるほど精巧だったという

■数学の問題が記された絵馬
江戸時代に奉納された絵馬には、円から直径を求めるような数学の問題が記されたものがある。
経済が安定した時代で商人だけでなく農民も高度な数学の知識が要求され、数学の問題集「塵劫記」はベストセラーになった

■東洋のエジソン「田中久重(からくり発明家)」
弓にかけた矢を的に放つからくり人形「弓曳童子」やゼンマイを巻くだけで和・洋時計、月の満ち欠けなど6つの文字盤が動く「万年時計」、製氷機などを発明
75歳で上京し、精米機や電信機・電話機を手掛ける工場「芝浦製作所」を立ち上げた。これは後の”東芝の重電部門”にあたる

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦
2021年11月17日 【大坂の陣 幻の大洪水】

■大阪の陣
1614年~15年に起きた豊臣家と江戸幕府(徳川家)の戦。1614年に起きた戦を「大阪冬の陣」、1615年を「大阪夏の陣」と呼び、それらを総称が「大阪の陣」となる

■よみがえる幻の大洪水
▽豊臣軍が徳川の進軍を阻み圧倒的な兵力差を補うため、淀川の堤防を切って水浸しにした
▽当時の様子をシミュレーションすると大阪城の北側と東側の10km以上の範囲が冠水したと考えられる
▽洪水作戦で戦が長期化することで豊臣が有利に進む講和交渉を狙ったのでは?

■真田丸の秘密
▽真田丸は大阪の陣で真田信繁が築いた出城。おとりになって大阪城を守っていた

■家康の逆襲
▽淀川河川公園にある巨大な石は徳川軍が洪水の水流を変えようとした名残の可能性
▽水抜きして進軍が可能になった徳川は備前島に大砲を設置して城を奪取したことで戦意を喪失した豊臣は和睦を申し出た

■豊臣滅亡の謎
▽大阪冬の陣で豊臣軍の主力となった牢人たちは戦のあとも社会の秩序を乱していた
▽牢人問題の解決を秀頼に迫った家康だが、解決できなかった
▽家康は大阪に出向き豊臣家を滅ぼすこととなった

【アナウンサー】近田雄一
【専門家】千田嘉博
2021年11月10日 【ハードボイルド!応仁の乱】

■足軽と応仁の乱
▽足軽は武士のような武芸も鎧甲冑も身に着けておらず、武器も扱いの難しい刀ではなく素人でも扱いやすい槍だった
▽1体1なら武士に分があるが、1対複数なら足軽でも武士を討ち取ることは可能だったという
▽応仁の乱では、個人の武芸よりも集団の強さが重視されており、足軽募集で人材を集めていた
▽応仁の乱における西軍・東軍の陣地は400mほどしか離れておらず、天皇や将軍の御所の近い場所だった
▽足軽たちは寺から資材を略奪して井楼櫓(せいろうやぐら)を建設していた場面も絵巻物に描かれている
▽応仁の乱で足軽が使っていた武器として「三眼銃」も確認されている

■暴力が支配した都
▽室町幕府の骨皮道賢は足軽軍団を結成。
▽ルール無用の戦い方や兵糧米など報酬を足軽に与えず略奪を許可することでモチベーションとするなど、公家は足軽を”白昼の強盗”と評した
▽朝倉孝景は「名刀を1本持つくらいなら、百本の槍を買って持たせよ」と家訓に残したという

■応仁の乱 その語
▽応仁の乱終結後は足軽たちは奈良の中心部tで略奪を行った、また京の町で狼藉を働いたことから、対策として堀や塀が造られた
▽疎開していた職人が京に戻り西陣織が始まった
▽足軽たちには給与が与えられるようになり、大名が強力な戦力として召し抱え重宝されたという

【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年10月20日 【江戸城 3つの天守の秘密】

■初代 徳川家康の天守とは?
▽青梅・成木熊野神社の一帯で採取された石灰を天守づくりに使用
▽石灰石から作られた消石灰は松やになどと共に漆喰に使われ、白く塗られた天守閣を形作った
▽白い天守閣を江戸のシンボルとし、豊臣天守よりも巨大な天守を作ることで戦争抑止に利用

■2代 徳川秀忠の天守とは?
▽秀忠は白の中央にあった家康の天守を壊し北の端に移設することで、江戸城本丸に広大な空間を生み出し巨大な御殿を建造
▽家康と同様の天守を残しつつ御殿を拡大することで武力に代わって徳川の威信を見せつける象徴とした

■3代 徳川家光の天守とは?
▽秀忠の造った天守を解体し、祖父や父と異なる黒い姿の天守を建造
▽江戸時代の初期は大量の銅貨で通貨制度が安定した”銅の時代”だったため、時代を象徴する銅の板を天守に使用。板に使われた錆止めが黒かったので黒い天守になった

【アナウンサー】青井実
【専門家】三浦正幸(広島大学名誉教授/建築史)
2021年10月13日 【龍馬と綱吉の真実】

■坂本龍馬の偉業!
▽薩長同盟の締結…敵対していた薩摩藩と長州藩の同盟締結に尽力
▽新政府綱領八策の存在が大政奉還後の裏に坂本龍馬の意思が影響していることを示唆している

■坂本龍馬の新常識
▽薩長同盟に資料を調べると、実は坂本龍馬は深く関与していないのではないという説も浮上
▽船中八策は実はフィクションではないとという意見も出てる

■徳川綱吉の悪政?生類憐れみの令
▽「行方知れずになった犬はなんとしても探し出す、替え玉はだめ」「鳥、うなぎ、どじょうなどの販売禁止」など徹底した政策が24年に渡って行われた

■徳川綱吉の新常識
▽傾奇者のような野蛮な文化を払拭すべく「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべきこと」と従来の武家諸法度から内容を大きく変更
▽綱吉の時代の後半には天災に見舞われ、新井白石はが綱吉の政策を次々と覆していったことから後世には綱吉の悪評のみが伝わった

【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年10月6日 【吉原遊郭】

■注目集める吉原遊廓 真相に迫れ!
▽吉原遊廓は幕府公認。一晩で千両(1億円以上)が落ちると言われ売り上げの1割は幕府に献上されていた
▽花魁道中(花魁が揚屋や引手茶屋まで馴染客を迎えに行く)を遊ぶには100万円ほどかかった

■吉原遊廓 伝説の花魁を調査
▽高尾稲荷神社に頭蓋骨が祀られている高尾太夫を紹介。19歳で亡くなったという
▽高尾太夫はゴッホの作品「タンギー親父の肖像」にも描かれている

■吉原遊廓 犯人は遊女!放火事件の真相
1849年に起きた遊女16人による放火、直後に自首した事件。遊女屋の主人により、借金のため自由を制限された遊女たちは過酷な労働環境に追い込まれていったという。放火した遊女たちと遊女屋の主人は南町奉行の遠山景元により裁かれ、禁錮刑や遠島処分になった

【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)

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放送日 テーマ 放送内容 出演探偵・その他
2021年9月29日 写楽 大江戸ミステリー ■写楽デビューの背景に蔦屋重三郎
▽蔦屋重三郎は浮世絵制作における、現在で言えばプロデューサー的な存在
▽歌舞伎役者を贔屓に応援する支援者から「役者絵」の制作資金を募って、それを庶民に販売して儲けるビジネスモデルを構築した
▽写楽のデビュー作のひとつ「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」は蔦屋重三郎が多額の先行投資を行い、高額な材料を用いた高級志向の「役者絵」となり人々の度肝を抜いたという
▽美人画のプロデュースで成功を収めていた蔦屋重三郎は、役者絵でも成功して浮世絵界のトップに君臨するため独特なタッチの写楽に目を付けたとも考えられる

■東洲斎写楽の名前や経歴
写楽について浮世絵師に関する資料から次のような説が紹介された

▽東洲斎写楽、本名は「斎藤十郎兵衛」
▽阿波藩のお抱え”能役者”
▽身分は「武士」

■勝川春英と歌川豊国
▽写楽がデビューすると、他の版元も一流の絵師を使って対抗。特に勝川春英や歌川豊国が大衆の支持を得た

■デビュー10か月で消えた写楽
▽鮮烈デビューを飾った写楽だが、彼の作風はモデルとなった歌舞伎役者やファンから反感を買った
▽デビュー半年で、写楽は彼の個性的な作風を捨てる選択をする
▽その結果、作品に魅力がなくなったのか、写楽は浮世絵師としてわずか10か月の活動期間で姿を消し、後世に”謎の浮世絵師”として名を残すこととなった

【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年9月22日 指揮官 土方歳三 ■徹底調査!土方歳三
▽二股口の古戦場周辺を調査。150年前の名残を強く残しており、その中には旧幕府軍が新政府軍の銃弾から身を守った”胸壁”の姿も。実際にどれほどの胸壁が作られたのか、ヘリとレーザー照射を利用して地形の計測を行うと山の尾根沿いに13の胸壁が確認された
▽土方は戦場における銃の重要性を理解しており、伝習隊に合流してフランス人の軍事顧問から「胸壁の構築」「銃を用いた戦術」を学び近代戦では剣槍が役に立たないと痛感したという

■激闘!二股口の戦い 土方VS.新政府軍
▽新政府軍600人を130人で迎え撃った二股口の戦いで巧みな戦術で兵を統率。自軍の兵に対しては、逃走は切り捨てとするも戦い後は労うなどアメとムチで信頼を築いていった
▽二股口の戦いで新政府軍を退けたが土方歳三だが、別ルートで旧幕府軍が敗北したため結果的に五稜郭までの撤退を余儀なくされた。
▽そして、土方歳三は明治2年5月11日に五稜郭で戦死することとなり、その7日後に旧幕府軍は幸福した

【アナウンサー】石橋亜紗
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年9月15日 大江戸SDGs ■江戸の町のSDGs
江戸時代には燃えるゴミがほとんど出ず、灰や破れた傘、溶けた蝋に至るまで再利用されていた

▽木屑は燃料として銭湯に売却
▽紙くずは再生紙の原料として売却
▽灰は焼き物の釉薬に使用
▽貝殻は焼いて細かく砕き城などの漆喰に利用
排泄物は発酵させ下肥(肥料)

■江戸のファッション事情
最先端のファッションも新品は高額で庶民に手が出ないが、すぐに古着が流通していたという

■江戸時代の気候変動
▽江戸時代は降水量が多く寒かったことから農民が多雨や害虫に悩まされており、年貢の免除なども行われていた
▽江戸三大飢饉(1732年・享保の大飢饉/1782~87年・天明の大飢饉/1833~39年・天保の大飢饉)を紹介

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)、浅利美鈴(京都大学大学院地球環境学堂准教授)
2021年9月8日 桶狭間の戦い ■桶狭間の戦い 織田は弱小ではなかった
▽尾張・清州城の城下町跡からは、予想以上の城下の広さや当時としては画期的な自前の職人を抱えていた鍛冶屋の存在の証拠などが発見されている
▽名古屋の長福寺で見つかった桶狭間の戦いに関する資料からは、滋賀の南部を治めていた六角氏の軍勢が織田軍に加勢していたことが分かった
▽織田はほかにも越前の朝倉氏と同盟を結び、経済面では瀬戸焼が全国的に流通していたことが最新研究で浮かび上がってきている

■戦いのきっかけは今川義元
▽織田家の領土にあった大高城を今川義元が奪取したことで尾張は南北に分断され、さらに今川は伊勢湾を中心とした海上交易を手中に収めようとしていた
▽信長は大高城を包囲するかたちで4つの砦を作り、今川義元を誘い出すための布石を打った可能性がある

■一か八かの戦いで信長勝利
▽三方を丘に囲まれた狭く足場の悪い戦いにくい場所だった桶狭間において、織田軍は機動力で上回っていた
▽善照寺砦から大高城方面の動きをチェックし今川の本陣を見定めようとしていた
▽信長は鷹狩で兵の索敵能力を高めつつ地形を把握し、さらに村人と顔なじみになり情報収集能力を強化したいたことが今川義元を討ち取る結果に繋がったと考えられる

【アナウンサー】腰塚優
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年7月21日 天下人の野望 佐渡金山 ■黄金の島に潜入調査
▽佐渡金山の金は掘り尽くされているが、最盛期の名残であちこちに坑道が残っている
▽当時は銀黒と呼ばれる黒い筋を探して金を取り出していた

■金鉱脈は見つかるか!?
▽味方与次右衛門が金脈を掘り当てたエピソードを紹介

■謎の鉱物とは?
▽戦国時代には銀の鉱脈が発見され、海外との貿易に銀を利用していた
▽佐渡の銀山は豊臣政権の五大老・上杉景勝が押さえており、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも使われた

■金と徳川の世
▽徳川家康が天下をとった後に佐渡で金脈が発見され、金を利用した貨幣制度や石臼など金採取の技術が進歩し経済が飛躍的に発展した

【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年7月14日 戦争とエンターテインメント ※日中戦争~太平洋戦争の頃のエンタメを紹介

■市民の楽しみは?
▽戦時中に流行っていたエンタメとして、与謝野晶子の朗読や「ハワイよいとこ」といったレコードが挙げられた
▽戦争が長引き国民の士気が落ちると、明るいエンタメが戦意高揚に使われていた

■漫才人気の秘密
▽戦時下に最初の漫才ブームが訪れ、エンタツ・アチャコ(花菱アチャコ、横山エンタツ)が人気だった
▽当時、表立って発言できない内容を漫才で代弁するような意図も込められていた
▽戦時下の漫才「国策料理」を漫才コンビ「ミキ」がスタジオで披露

■娯楽規制に働いた力とは
昭和19年に入ると、戦況が悪化する中で不謹慎としてエンタメ・娯楽に批判的な国民の声が強くなり、劇場閉鎖などエンタメ規制が行われた

【アナウンサー】新井隆太
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
【その他】ミキ(漫才コンビ)、西川きよし
2021年7月7日 独眼竜政宗 伊達(だて)男の真相を追え! ■仙台市博物館
甲冑や陣羽織を紹介。晩年の伊達政宗の肖像画に両目が描かれているのは遺言によるもの。また眼帯のイメージはあくまでフィクションだという

■頭蓋骨から読み解く 伊達政宗の真の姿とは?
国立科学博物館筑波研究施設で頭蓋骨から顔を復元。スタジオには復元された整った顔立ちの伊達政宗像が登場

■戦国ヒーロー 伊達政宗 世界規模の野望を解明せよ!
伊達政宗は貿易と徳川幕府打倒のため、ヨーロッパに使節を派遣。スペインと軍事同盟を結ぼうとしたことがわかる文書が残っていた

■新発見の地層から読み解く 伊達政宗の真実
宮城県岩沼市の地層調査から、400年前にも東北で地震や津波が起きていたことが判明。伊達政宗は塩の生産・新田開発・交易などによる復興策を行っていた

【アナウンサー】青井実、打越裕樹
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)、戸坂明日香(複顔師)、坂上和弘(国立科学博物館研究員)

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放送日 テーマ 放送内容 出演探偵・その他
2021年6月30日 信長・秀吉・家康 神への道 ■徳川家康 神への道
▽徳川家康が死後、日光に祀られた理由を「神になる」という観点で解説
・神の星(北極星)により江戸を見守る神になるため、江戸の北にある日光が選ばれた
・富士山(不死山)と江戸城、それぞれの場所からラインを引いた先で交差する場所として日光が選ばれた

■織田信長 神への道
第六天魔王(仏教修行を妨げる魔)と呼ばれた信長が1571年に比叡山焼き討ちを行った理由として、仏教勢力よりも上であることを示そうとしたと解説

■豊臣秀吉 神への道
秀吉は無くなる際に、京都吉田神社神主・吉田兼見を呼び”自分を神にするように”と言い残し、死後に豊国神社が作られ秀吉が祀られた(=神になった)と解説

【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年6月23日 細かすぎ毛利元就 ■圧倒的に細かい性格
▽毛利博物館の毛利家文書から毛利元就の細かい性格や毛利家の置かれた状況への危機感などが伺われた
■謎がたくさん 厳島の戦い
▽2万の軍勢・陶晴賢 vs 4千ほどの軍勢・毛利元就の戦いと言われていたが、専門家は5000vs4000ほどの兵力の戦いだったのではとの見解を示した
■奇襲攻撃の真相に迫る
▽毛利元就は背後からの奇襲を行ったとされるが、実際には姿が丸見えで奇襲にならないため、通説とは異なる見解を解説した
■闇の博打尾越えを検証
▽奇襲を成功させるために必要だった「博打尾」越えが、闇夜に可能だったかを検証し、土地勘があれば可能ということが実証された
【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年6月16日 謎の将軍 徳川慶喜 ■発見!秘密の回顧録
▽渋沢史料館の徳川慶喜の回顧録から大政奉還はに関する徳川慶喜の真意をAI分析し、「本音を話してない可能性」を導き出した
■二条城 大政奉還に迫る
▽大政奉還を発表するため事前の根回しや駆け引きなどが行われ、その舞台となった当時の様子を再現
■宿敵薩摩 勝利への秘策
▽大政奉還後から鳥羽伏見の戦いを経てすべてを失った徳川慶喜と彼の名誉を回復しようとした渋沢栄一
【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年6月9日 秀吉 中国大返し ■大軍大移動
▽2万以上の軍勢を13日間で200km以上を移動させた
■兵糧を運ぶ馬
▽馬での運送は雨や川が難所になり、色々と問題があったと考えられる
■新説登場
▽馬の問題を解決する新説として「船」を使い、陸と海で輸送を分担していた見解を紹介
■瀬戸内海の覇者は?
▽当時の瀬戸内海は海賊(水軍)が支配していた
■信長を迎える施設
▽陸路は、織田信長を迎える御座所「兵庫城跡」や船上城などが中継地点として利用されていた
【アナウンサー】森田洋平
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年6月2日 秦の始皇帝 ■軍事力の秘密を徹底調査!
▽他国に先んじた騎兵の導入
■中国統一を可能にした 謎の武器
▽弩(いしゆみ、おおゆみとも呼ばれるクロスボウのこと)
■強大な軍事国家を築けた秘密
▽奴隷からでも出世できる仕組み
【アナウンサー】青井実、比田美仁
【専門家】鶴間和幸(学習院大学名誉教授/世界史)、鶴間和幸、来村多加史
2021年5月26日 渋沢栄一inパリ万博 ■幕末の大プロジェクト!パリ万博
■世界の粋が集まる!幕末のパリ万博会場
■幕府使節団 華の都 パリへ!
■パリ万博 日本の展示物の評価は!?
【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
【ドラマパート】駿河太郎(渋沢栄一 役) ほか
2021年5月19日 長篠の戦い ■戦いの現場を上空から調査
■織田・徳川vs武田
■織田の秘密兵器!?
【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)、湯浅大司
2021年5月12日 真相!池田屋事件 ■時代劇の定番は真実か 池田屋事件を探れ!
■戦いを徹底検証
■最新研究ドラマ
■新選組 真の狙い
【アナウンサー】石橋亜紗
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)
2021年4月28日 飛鳥の八角形古墳 ■完全再現!中尾山古墳
■火葬された人物は?
■誰の骨壷か?金銅四鐶壺
【アナウンサー】近田雄一
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)、西光慎治、猪熊兼勝
2021年4月21日 葛飾北斎 天才絵師の秘密 ■「冨嶽三十六景」の謎
■赤富士&黒富士に隠された秘密
■グレートウェーブを探して
■ゴーストライター疑惑
■娘の足跡を探して
【アナウンサー】青井実
【専門家】河合敦(多摩大学客員教授/歴史研究家)、奥田敦子(「すみだ北斎美術館」学芸員)、早稲田卓爾(東京大学教授) ほか
2021年4月14日 関ヶ原の戦い ■【徹底調査】謎の巨大山城「玉城」 関ケ原の戦いの痕跡を探せ
■【最新技術】巨大山城「玉城」の主とは?
■【最新科学】小早川秀秋 裏切りの真相
【アナウンサー】青井実
【専門家】千田嘉博(城郭考古学者)
2021年4月7日 平安京ダークサイド ■360度撮影で迫る!リアル平安京
■碁盤の目は欠けていた
■なぜ右京から人が去った?
■治安を乱すもの&警察組織「検非違使」
■上流貴族・地方役人も犯罪者
■武士誕生
【アナウンサー】近田雄一
【専門家】桃崎有一郎、南孝雄、西山良平、磯部育実
2021年3月31日 参勤交代 ■中間管理職の苦悩
■徹底再現!大名行列
■参勤交代 ルートをたどれ
【アナウンサー】近田雄一

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特番時代

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放送日 テーマ 放送内容 出演・補足など
2020年12月2日 明智光秀の城 ■明智光秀の城を探れ!「坂本城」湖畔の天主
▽明智光秀 意外な人物像
■明智光秀の城を探れ!「周山城」山上の巨大要塞
▽光秀と信長 対照的な人物像
▽真相 本能寺の変
【MC】佐藤二朗 【司会】渡邊佐和子 【解説】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家) 【リポーター】近田雄一
2020年3月25日 黒船来航 ■現場調査「黒船艦隊から江戸を守れ 海上要塞 お台場の秘密/鉄壁の防御力/驚異の攻撃力」
■AIシミュレーション「黒船とお台場 戦闘シミュレーションの行方は?」
■想定外!2度目の黒船来航 日本は黒船にどう対する!?
■決着!黒船VS.「お台場」 阿部正弘 幻の決戦計画
■黒船VS.「お台場」 幕末衝撃の日米攻防
【MC】佐藤二朗 【司会】渡邊佐和子 【解説】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家) 【リポーター】近田雄一 【その他】冨川武史(品川区立品川歴史館)、川上智、淺川道夫、栗飯原萌 ほか
2019年12月18日 本能寺の変 ■現場調査「なぜ信長は簡単に殺された?」
■データ検証「光秀はどうやって見つからずに大軍を動かした?」
■科学解明「なぜ光秀は天下をとれなかった?」
【MC】佐藤二朗 【司会】渡邊佐和子 【解説】河合敦(多摩大学客員教授・歴史研究家) 【リポーター】近田雄一

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放送日時

レギュラー放送時代

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放送期間 曜日 放送時間 放送局
2021年3月31 水曜 22:30~23:15 NHK総合

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不定期特番時代

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放送日 放送時間 番組名 放送局
2020年12月2日(水) 22:30~23:15 歴史探偵「明智光秀の城」 NHK総合
2020年3月25日(水) 歴史探偵「黒船来航」
2019年12月18日(水) 22:30~23:20 歴史探偵「本能寺の変」

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公式サイト / SNS

公式サイト
歴史探偵 – NHK
公式サイト
歴史探偵 |NHK_PR|NHKオンライン

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